三軸修正法黎明期
「これからまくタネ」 26〜30
池上悟朗の
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■「これからまくタネ」は、演出上動画を組み込んでおります■
ご覧になる方の環境によっては、「かなり重い」場合もあると思われますがご了承下さい。
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「これからまくタネ」 26
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「ドアの向こう」26
半身不随の僕が紹介された先は「精神内科」です。どんな分野かは今でもはっきりわかりませんが地元の大学病院では「精神的な病気でなかったら100%脳腫瘍です。」との最後の手だったみたいでした。この科が日本で初めて出来たときだったとか後で聞きました。
忙しい先生で普段、月曜日の一番目の患者しか外来を受けない先生だったらしいのですが、「遠くからきたからどうぞ」と特別に診てくださって、このことが私のこれまでで一番のラッキーだったかもしれません。父の話では沢山持って行った過去の検査結果などは「とらわれるから」と言う理由で先生は全く見ずに診察は始まりました。中肉中背の特に特徴のある先生では有りませんでしたのであまりはっきり覚えていませんが「威厳」と感じるムードが漂っていました。部屋は空調の配管がむきだしの倉庫のような殺風景な部屋で医学生が数人先生に付いていました。
東京大学です。僕でも日本一頭のいい人が集まっているところだって知ってます。東大の医学生なんてすごい。これが「一流」なんだと思いました。でも僕は今惨めさで心がいっぱいの弱々しいただの患者なんです。なのにこんなにすごい病院に重病で来ているんだと思うとなんとなく気持ち良かったような、馬鹿みたいだけれど、誇らしいような気分です。診察が始まって学生たちに通り一遍等の検査をさせてしばらくしてなぜか私と母はドアの外に出されました。もう診断果が出たのでしょうか?ちょっと怖いですね。数日前に母に聞くと、母は「悟朗はそのうち直る」と感じていたので気楽にしていたそうです。具合が悪くほとんどの時間寝てばかり居た私なのですが、母には分かっていたのでしょうか。そういえばうちの女房も子供が重病だと人に言われてそのまま信じるとは思えないな。それに私は「仮病」にすっごく詳しいですから家の子供たちはやりにくいですね。(笑)
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「これからまくタネ」 27
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「救いの言葉」27
中肉中背の「杉田教授」は多分当時40歳代前半だったと思います。父と先生がその向こうにいて何を話していたのか、いよいよ死に至る決定的な診断結果がでる瞬間なのか、ドアが開いて母と私が部屋に入ります。すると開口一番、先生からその後の私の人生においてもっとも大きな影響のあった一言が、「突然」でもすごく優しく、なにか大きなものに包んでくれるような口調で私にぶつかってきました。
「君が世の中で一番嫌いなのはお父さんだね!」
一瞬の間が空いて、私の目から涙がホントの本当に漫画のようにほとばしったそうです。
私は泣いていたかもしれないけれど、それより胸の中が気絶しそうなほど大きく動いていました。床と壁、天井がぐらぐらと大きく揺れて呼吸もしているのかどうか分からない数秒間のあと膝や首に伝わる涙の冷たさを感じたように思います。大きなものがこみ上げて涙を止められません。全く予想していなかった一言が今まで誰も知らないはずの私の心のスイートルームの奥いっぱいに鳴り響いたのです。十年間待ち続けていた言葉なのに自分でもどうやって言葉にしようか分からなかった一言を、この杉田先生はものの見事に言い当てたのです。
最近になって父に聞くと、先生は父の生い立ちを事細かに聞いたそうです。兄弟は何人か、どんな家風の家に育ったか、小さい頃どんな子供だったのか、父の父母のことやらなにやら。父は「病んでいるのは私じゃない。病気なのは悟朗だ!」と言ったそうですが先生は「それは分かっています。」とずいぶん父の育った過程を聞かれたそうです。それから母もひとりで同じようなことを先生に話した時間が多少あったそうです。先生が何を父母から聞き出したかったのかはわかりません。細かいことは皆だいぶあやふやになってしまっています。ただ先生は父に「お父さんのお子さんの育て方は何も間違っていませんよ。ただ時代的にはかなりずれていますね。」とおっしゃったそうです。
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「これからまくタネ」 28
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「歩ける!」28
数分間私はただ涙を流していたのだと思います。ほとんど歩けないような状態だった私のまつげの生え方が左右対称だったことを確認して、杉田先生は「ぼく、学校へ行きたいだろう?」「明日からもう学校へ行っていいんだよ。」「大丈夫歩けるから歩いてごらん」とすべてお見通しだという威厳に満ちた言い方でおっしゃいました。私はスッと立ち、普通に歩きました。実は両親は僕が歩けないと思っていたらしいです。普段の生活は介護してもらわなくても良かったのだからちゃんと歩けていたはずなのに、そう思いこんでいたらしい。
立って歩いたことにすごく驚いたようです。私は隠しているつもりもなかった。トイレに行ったりは自分でやっていたのだから私だけじゃなくて両親の精神もかなり異常な状態だったのことがよく分かります。それで杉田先生と父の間を何回か歩いて往復しました。私はそのつもりではないのですが、杉田先生の方に歩くときはしっかりしていて、父の方に歩くと歩き方がとてもぎこちなかったそうです。父には「かわいそう」に見せる必要が私にはあったということで、まさに「仮病」ですが、無意識のうちにそのような行動になってしまう。仮病と本当の病気(精神病と言うんでしょうか?)を自動的に行ったり来たりしてしまっていたのです。まつげの生え方とは奇妙だと思いますね、左半身を動かさない数年間のうちに体全体がかなりいびつな発育をしてしまっているので、純粋に発育の具合を左右で比べる必要があったからではないかな?ともかくまつげの長さをなにかの判断基準にされたらしいです。
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「これからまくタネ」 29
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「笑い方」29
私の症状を言い当てた先生が次にしてくださったことは、薬の処方でした。それがとても変わっています。「ここに薬があるだろ、君はもう中学生だから分かると思うけどこれは胃酸なんだよ。でも君が辛いときにこれを飲むとすごく良くなるから早速一つ飲んできてごらん」と大きな大きな赤い毒々しい色の錠剤を渡してくれました。私は部屋から出て、洗面所でその大きな錠剤を飲みました。普通の糖衣錠だから甘い味がしました。この錠剤を飲んだ瞬間にどうということは無かったけれど、これから良くなるんだ!と意気揚々と決心したことは間違い有りません。
でも、この人生の大きな転機に、にこにこ笑いたのにどうやって笑ったらいいのか分からなかったような気がします。「笑う」事が長いこと無かったためか、自然に笑う笑い方を忘れてしまっていたのでしょうね。「笑う」って目尻を下げて唇の両端を持ち上げることでは無いんです。今さっきまで私は病気で明日をもしれない体だったのです。だから病気の自分をやり続ければ良かったのです。でも杉田先生のお言葉で「仮病」をし続ける必要が急に無くなった私はいったいどんな自分になればいいのでしょうか?どんな風に歩いたり、どんなポーズで座ったり、どんな話し方で話したりすればいいのでしょう?心が大きく動いて目が回りそうです。混乱しています。そんなに急に変わっていいものなのか?自分だけでなく、周りの人も困るんじゃないかと心配になります。松本に帰って親戚の人の前でどんな風に話せばいいのか、きっとみんな僕が病気だと思っているのに、、仮病だったと思われるとすごく困ることになるんじゃないか、学校の友達や先生にもどういいわけをすればいいのかとか、よくまあいろいろ考えることがあるものです。よくよく「ヒマ人」ですね。
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「これからまくタネ」 30
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「薬の色」30
やっと僕のことを理解してくれる人が現れました。僕にとっての救世主。今までずっと一人だったし誰も助けてくれなかった。父がいつでも絶対で、僕なりの意見を言うと逆に長時間説教され、たたかれ、の救いようのない真っ暗な世界だったのですが、毅然と父に意見を言ってくれる人が現れたのです。父は東京大学のこの先生のいうことなら聞いてくれると確信がありました。先生は絶対僕の味方に違いない。こんなにうれしいことはほかには有りません。最高の時間が人生にやってきました。例の大きな胃酸を何日分かいただいて帰ってきたのですけれど、全部定期的に飲んだりした事は無かったと思います。薬がなおしてくれるとは先生は言わなかった。「胃酸」だよって教えてくれたのですからね、薬で治るわけじゃないよ、自分で直らなきゃいけないよと言われたのと同じな訳ですから。
まあ理屈は理屈としてその後何回かはお世話になったけれどね。このとても大事な役割の錠剤についてですが、この文章を書くに当たって父母と話をした中でこの胃酸の色の記憶がみんな違うことに気が付いたのです。私は「オレンジ掛かった赤」母は「白い玉の薬」、父は「緑色の毒々しい薬」と三者三様、みんな凄く大きな薬だったことは意見が合うのですけれど、クスリのイメージを自分で勝手に好きな色に変えてしまっているのです。記憶というのは本当にあやふやなものですね。その後、もう1回だけ杉田先生にお会いしました。そうたったの2回です!!。そのときはお尻に注射したのですが、ビタミンCの注射で母が聞いた理由は「痛い注射だから」だそうです。効く!と実感するのに演出も必要なのですね。そのビタミンC効果は30年近く経った今でも続いています。すばらしい注射です。
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