三軸修正法黎明期
これからまくタネ
池上悟朗

三軸修正法創案者「池上六朗」の長男「悟朗」が綴る、三軸修正法黎明期。
この時代、池上家に何があって、どのように三軸修正法が生まれてきたのか初めて明かされます。
どんどん増える連載です。
毎週少しずつ書き続けていきますので、ちょくちょく覗いてみてください。

「これからまくタネ」は、演出上動画を組み込んでおります
ご覧になる方の環境によっては、「かなり重い」場合もあると思われますがご了承下さい。


「これからまくタネ」 1
 先日アシュラムと神戸から沢山のお客様が松本にお見えになって、私も とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。本当にありがとうございま した。
 その数日前、父から私(悟朗)が大病を患って(左半身不随)現在に 至るまでのあいだ何を考え、社会復帰するためにどのような道筋をたどっ たのか、また「病気になっている」という状態、そして「病気が治る」と いうことはどのようなことなのかを話す事がきっと何人かの人の役にたつ のではないかと提案がありました。
 私が半身不随になったことが結局、父が治療への道を歩み始めたきっかけ にもなっているのだからとのこと。私の両親、志保と信三の二人の兄弟に 多大な迷惑を、しかもとても長期間にわたり掛け続けたわけですので私と 家族全員にとって、とても良い思い出とはいえませんが三軸修正法の会員 の皆さんの参考に少しでもなればと思いこの場をお借りしまして少しずつ お話ししようと思います。                               つづく

「これからまくタネ」 2
 「半身不随」  半身不随の状態とはテレビの中でご覧になる機会も有るかと思います。不治 の病が原因の方が多く、私の場合は結局完治できたわけですので本当にラッキ ーでしたが、その大変さはよく分かります。文字の通り左半身がほとんど言う ことをききませんでした。
 顔も半分麻痺していて、私は鏡を見る気にはならなかったので分かりませんが 片側の唇がだらしなく下がり、よだれを垂らしていても気が付かない状態です。
 小学4年生から小学6年生くらいの成長期にだんだんにそうなったので、体の 発育上重大な影響が出てしまいました。治り始める頃に気が付くと左の鎖骨の 太さが、自由に動く側の右の鎖骨の半分しかないのです。歩くのもままならず 移動するのに父に背負われて歩くしまつでした。

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 それまで見てもらっていた大学病院の診断は「脳腫瘍」です。小学生の私はそ の時点で両親から病名を聞いていたのかどうか記憶はありません。でも間違い なく、それは家族にとって大変なピンチであるわけで、後で聞いた話ですが、 最後に訪ねた東大病院で脳の手術になるだろうということで両親は大変な借金 をし、親戚に血液の提供を頼んであったそうです。
 しかもCTなどという機械はまだ無い時代ですから「開けてみないと分からない」 そこで原因が発見できなくても後遺症を残さず「元通りに戻るか分からない」 という状態だったそうです。                                つづく

「これからまくタネ」 3

 「きっかけ その1」

 小学校の4年生の冬のことです。私の家はちょっとした高台になっていてすぐ隣に 5メートルほどの幅の沢(さわ)が流れています。沢の対岸の水田まで3メートル くらいの落差があるのですが、斜面をおりたところに丸太に土をかぶせてある粗末 な橋がかかっていました。冬にプラスチック製のそりで滑り降りるのに理想的な ゲレンデで、兄弟でよく遊んだものです。しかも下のたんぼとのあいだに60cm ほどの段差があるのです。そんな使えないような橋が何のためにかかっていたのか わかりませんがその60cmの段差がこれまた絶好のジャンプ台です。

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 ある日、ジャンプに失敗して首が「ゴキ!」と鳴るほどの勢いで逆さまに頭から落 ちてしまったのですが、私の体に異変が起き始めたのはそれからしばらくたってから のことでした。と、そう信じていたのですが、これがどうも怪しい。だって脳腫瘍は 「ケガ」ではないのですから。でも本当に脳腫瘍だったとすれば、大きくなってから 両親から聞いたので知っているのですけれど「余命」を一度は「半年」と宣告され た私が今現在42歳でピンピンしていられるはずもないですね。 それにしても余命6ヶ月足らずとは両親のショックはどれほどのものだったのか 二人の子供を持つ私には想像することすら恐ろしい。                                  つづく

「これからまくタネ」 4

 「きっかけ その2」
両親にそり遊びで転んだのが原因だったねと話すと早速「お前、それはちょっと違うぞ、」とひとこと。
細かい部分は小学生だったから仕方ないなと思いつつ、それでは本当はどうだったのか聞いてみると、まず風邪のような症状で9度近い発熱と、嘔吐と、ひどい頭痛がとまらず、かかりつけの内科医院で1週間ほどインフルエンザの治療をしたのですが、症状が全然良くならず、「内科的な原因ではないと思います」と、その後なぜか「整形外科」を紹介されたのです。
それら二人の医者が友人同士であり、大学病院に在籍していたときに「脊髄腫瘍」を専門に研究してしていた先生だったことが、それまで全く思いも寄らない「脳腫瘍」という大変な病名が登場する原因となったのでした。
その整形外科医に私が主に訴えたのは「頭が痛い」ことでした。インフルエンザやその 他内科的な病気ではなさそうな小学生がひどい頭痛を訴えたので痛み止めの注射を首に何度かしました。針を首の骨の間かどこか注射針を差し込むとそのあたりで「ごり!」と何とも言えない感触がありました。いい加減な記憶ですが毒々しい赤い注射だったような気がします。どちらにしてももの凄い「恐怖感」を感じたことを覚えています。小学生ですし下を向いて後ろから首の骨の隙間あたりに注射するんですから。
そこで,これから私の本当に小さいときの話をしなければなりません。無類の小心者、恐がりだったことをお伝えしておかないと、この程度の注射に耐えている子供は今日も世の中に沢山いるでしょうから。
                                  つづく

「これからまくタネ」 5
  泣き虫

私が生まれた頃、父は大阪商船という船会社の航海士でした。外国航路でしたので小さな 私は母一人に育てられたようなものでした。航海士など何なのか知りませんが、僅かに 知っていたことは「船」と言う乗り物の描き方くらいです。母が教えてくれたのか私が 描く船は真ん中に煙突が立っていて2本の横線と大阪商船の「大」の字がデザインして あることで、船にはなんでも煙突に大の字が描いてあると思っていました。
久しぶりに父が大きな赤いダンプカーをおみやげに帰省しました。どこかいじると 「ガー!」と荷台が上に上がる仕組みです。さぞかし喜ぶかと思いきや船員寮の建物中 に響く声で泣き出したそうです。
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その後父が船から下りて金属の焼き入れを仕事にしていたころ近所の男の子によく泣かされてかえってきた私に、父が「ざまーみろ!くらい言って見ろ!」と大声を上げると「お父さん。ざまーみてごらんでしょ?」と答える始末で、今は中学生の子を持つ親となってみると、父の歯がゆさはよく理解できます。
これが自分のことでなければ笑い話なのですが。


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